気まぐれ日記 09年8月
09年7月はここ
8月1日(土)「講演旅行・・・の風さん」
結局昨夜は、3日の講演の準備以外だけで、午前2時半までかかってしまった。
それでも今朝は、早く出発しなければという思いから、午前6時に起きた。
眠い。当然だろう。この時点で、今日の二つ目のスケジュールを断念することにした。五感塾の事務局と北村三郎さんへ、キャンセルとごめんなさいメールを送ってから、慎重に出発の準備をした。寝不足でボーッとしたら、危険だ。そこへ旅行の準備不足が重なったら、さらに危険だ。交通安全はすべての前提条件である。
あれこれ考えながら準備しているうちに、出発は午前7時半になってしまった。
空模様も怪しくて、この先どうなるか、まったく予想が立たなかった。
今日は休日なので、有料道路や高速道路のETC割引がある。地球環境保全に逆行する良くないルールだが、貧乏作家としては助かる。
ところが、最初のインターを過ぎたところで、忘れ物に気が付いた。
ケータイでワイフに連絡して、忘れ物を持ってきてもらった。これで、実質の出発はさらに遅れた。
名古屋が近づくと土砂降りというか豪雨になった。取り付けたばかりのフォグランプを点灯し、ワイパーを高速モードにして走らざるを得なかった。フォグランプが役に立ってうれしいが、こんな使い方は想定していなかったな。
東名高速に入ったら、今度は自然渋滞である。ETC割引の影響だろう。
ジャンクションから中央道に入ったら、今度は事故渋滞である。
歩くような速度になってしまったので、最初の目的地である安曇野の知人に電話して、遅れそうだと伝えた。
その後、渋滞は解消し、順調に走り出したが、雨が降ったり、日が照ったり、めまぐるしく天候が変わった。
安曇野にはほぼ正午に着いた。予定より1時間遅れだ。
知人とは何年かぶりの再会である。今日2番目のスケジュールをキャンセルしたので、ゆっくり過ごすことにした。老舗の蕎麦屋で昼食にし、さらにコーヒーも飲みながら歓談した。話すことは、お互いに山のようにあった。短い人生の中のさらに一瞬を同じ空間で過ごすことの意味を、深く考え、大切にしたいと思うところが、二人の共通点だった。ワイフへのお土産に高級かりんとうをいただいた。
そんな二人の会話とは関係なく、大きなガラス窓の外では、雨がときおり激しく庭園に降り注いでいた。
そこから今夜の宿泊ホテルまでは高速道路を利用してあっという間だった。
チェックインして、部屋に入ったが、仮眠しなければ、とても仕事に手がつけられないほど疲労していた。
湯船に身を浸し、ビールを飲んでベッドに倒れこんだ。
午前零時頃やっと起き出して、講演の準備をした。持参してきた資料の勉強やスライドの整備など、やることは死ぬほどある。
8月2日(日)「軽井沢夏期大学初日・・・の風さん」
朝食を終えてレストランを出たところで、上野先生ご夫妻とバッタリ会ってしまった。ご夫婦で来軽されているとは知らなかった。大学を今年定年退官されたので、やっと奥様孝行ができるようになったのかもしれない。
しかし、これでミッシェルに上野先生をお乗せする計画はボツになった(^_^;)(二人乗りだから)。
どんよりとした空の下、早々とミッシェルで会場へ向かった。何せ販売用著書をどっさり持ってきているのだ。初日から最終日までたっぷり時間をかけて売らないと、また大量に持って帰るという侘しさを味わうことになる。今回は「時間作戦」である。
途中コンビニに寄ったが、次々に買い物客がクルマで入ってくる。狭い駐車場に我勝ちに突入して非常にマナーが悪い。気分を害した。
会場には受付ができていて、事務局のTさんを呼んでもらい、早速お土産のえびせんべいを渡した。恐縮されていたが、予想以上にスタッフが多そうで、大袋の中身は一人当たり数個になってしまいそうだ。
ダンボール箱3つ分の拙著を運び込んだ。待ってました、とばかりに受け入れてくれたのでホッとした。
控え室へ行くと、教育委員会や町の学校長、スタッフらたくさんいて、名刺がどんどん増えた。
手紙のやりとりをしただけの渡辺尚先生のお姿もあったが、柔和な中にも鋭い視線でこちらを一瞥しただけで、すぐに名刺交換はしなかった。背広ネクタイ姿がほとんどの中に、いきなりポロシャツ姿のチンピラみたいな私が飛び込んできたわけで、期待感がトーンダウンしておられるのかもしれない。
午前中というかトップバッターは、村形明子先生の「フェノロサと岡倉天心 〜さまよえる旅人〜」。
中央公民館大講堂には100名をこえる聴講者が集まっていた。軽井沢夏期大学への期待感の大きさを感じる。ふだんは1万人ほどの町民が、この時期は3万人をこえるのだそうだが、避暑客はのんびり遊んでいる人ばかりではないということだ。
最初の講義は、テーマは興味深いものだったが、まるで大学院の学生に講義しているようで、難しすぎた。村形先生は体調不良で、準備をしっかりしている余裕がなかったのだそうだ。しかし、講義の途中の休憩時間に、顧問役の渡辺尚先生が、村形先生に軽く指導をされている姿を見た。それで、こっちが身の引き締まる思いがした。
昼休みに受付に行ってみると、「順調に売れていますよ」と声をかけられた。早くも奇跡が起きているのだろうか。少し元気が出たので、机に全種類並べてもらうようにお願いした(『算聖伝』と『ラランデの星』、『和算忠臣蔵』が並んでいなかったのだ)。
午後は、坂本満先生の「南蛮屏風から開化絵へ」。
いきなり絵の解説ではなく、人間にとって物が見えるということはどういうことか、という話から入った。見たこともないものを初めて見たとき、あるいは人から聞いただけの物はどのように想像するのか、そういう話だ。この導入があったので、次々にプレジェクターに映し出される絵の解説が、納得性があると同時に興味深く感じられた。日本人が外国人をどう見たか、逆に、日本人が外国人からどう見えたか、といった分析である。人間だけでなく、風俗・習慣・建造物にいたるまですべてそう思って見ると面白い。
初日が終わって、おやつまでいただいて解散となった。いよいよ明日の朝から私の番である。今日の経験を明日へ生かさねばならない。
先ず、プロジェクター担当者に改善を申し入れた。今日は、講演者が中央の演壇上に立って、スライドは右半分後方に映し出していた。ビジュアル講演をする私としては、スライドを中央に目一杯映し出してほしかった。そのためには、講演する私自身は、演壇の下に降りて、左右どちらかの端っこでしゃべる必要がある。私の提案はすんなり通った。
ホテルに帰って、シャワーを浴びてリラックスした後、昨夜からの講演準備の続きを始めた。
7時半に渡辺先生、上野先生ご夫妻と4人で夕食となった。和食を選んだので、軽くビールで乾杯した後、冷酒をとることになった。何を注文するか渡辺先生にお任せしていたところ、ワインリストの中でしっかり目をつけていた純米冷酒「帰山」を指定してくれたので、内心拍手喝さいしてしまった。
まじめな渡辺先生の誘導で、食事の話題が専門的になり、今回の夏期大学の統一テーマ「近代日本の西洋文化の受容」にたどり着いてしまった。上野先生の奥様も、しっかりご自分の意見を主張される。油断すると、講演後に手厳しい指摘を受ける恐れがある。とは言え、明日のネタをばらす気はなかったので、適当なところでお茶を濁した。明日の講演の準備がたっぷり残っているのに、うまい冷酒にしこたま酔ってしまった。
部屋へ帰って、仮眠してから作業を再開することにした。
8月3日(月)「いよいよ講演本番・・・の風さん」
午前3時に起床して、講演準備を再開した。
プロジェクター担当者が現地に来る8時半に合流する予定だったので、時間的な余裕はあまりない。
スライドがほぼ完成したのが、午前7時である。正味2時間ほどの講演に対して、120枚のスライドになった。いつもの高速講演スタイルになりそうだ。パソコンが不調の場合も想定して、外付けHDとUSBメモリにバックアップもとった。こういった作業がある分、準備は大変なのだ。
今日はさすがにスーツにネクタイで乗り込むので、身だしなみを整えているうちにまた時間がなくなってきた。トートバッグにパソコンから資料にいたるまでぎっしり詰め込んで、朝食レストランへ向かった。そのまま出発するつもりだ。
ほぼ10分で朝食を済ませ、ミッシェルで出発した。道順は分かっているので、ナビは使わない。
昨日からまた少し天候が回復してきている。青空が見えた。
大講堂の準備はバッチリだった。私が小さな演台を用意して聴講者と同じ床面で左端に置き、そこへパソコンなどを設置したので、「先生、そんなところでやられるのですか?」と皆から心配されたが、「ここが私には分相応です」と涼しい顔で応えた。私の位置なんかより、スクリーンを目一杯使って画像が映し出されていたので、私は安心すると同時にいつもの闘志が湧いてきた。何をやるにも戦闘気分の風さんである。
早々と現地にやってきて、スーツ姿の私を見て、渡辺先生も少し安心されたようである。
もう少し資料を読んで勉強しておきたかったが、直前に慌てふためいてもみっともないだけである。控え室でどっしりとかまえていた。いつものように素敵な女性がお茶を運んできてくれる。私はコの字型のテーブルの奥の定位置に座っているのだが、最初にお茶を置いてくれる。それがうれしい。俗っぽい風さんだが、どうやら平常心になっているようだ。
講演者には地元の校長先生が専属でつく。会場と控え室の行き来の案内を始めとして、講演後の感謝の言葉まで述べられるのである。私は石橋校長先生のお世話になった。地元の数学教師を長く勤められ、和算の研究もされている中村信弥先生のご本までいただいた。
スクリーン画面の改善だけでなく、昨日の講演で勉強したことも自分の講演に生かした。坂本先生を見習って、自分の視点を最初にしっかり説明したことが成功につながった。
休憩時間に渡辺先生から、「テンポよく話を進めながら、決して論点を外さない、1枚1枚のスライドに説得力があり、その説明が長くも短くもないところが素晴らしい」とお褒めの言葉を頂戴した。
積極的にユーモアを交えて、会場の雰囲気をなごやかなものにし、最後に、そうは言っても聴講者に対する尊敬の念は忘れず、通常「ご清聴に感謝します」で終わるところを、「ご清聴に敬意を表します」でしめくくった。
わざわざ安曇野の知人が聴講に来てくれていたが、ゆっくりお礼の言葉を伝える余裕もなく、控え室に戻ってからも質問者が次々に現れて対応に追われた。
私を推薦してくださった上野先生の期待に応えられたという実感が体中にあふれた。
午後は、石井紫郎先生の「明治の土地公有論 〜土地私有制批判の系譜〜」。
大任を終えた私は、上着を脱いでリラックスして聴講できた。そもそも土地とは公のものか私のものか、という難しい内容を含んでいたが、そういう哲学的な問題ではなく、もっと高い目的があったときに、公か私かは手段として決まるというのが結論で、非常に勉強になった。公か私かを整備していくことを「社会技術」という呼び方をされたのも印象深かった。
講演の成功を裏付けるように、持参した本がまたたくまに売れていった。「欲しかったのに〜」という方がみえたので、太っ腹の私は「送料は当方負担でお送りしますよ」と申し出て、たくさん受注してしまった。売れば売るほど赤字になる売価設定に加えて、帰宅してからの作業時間を想像するとため息が出るが、駆け出しの作家としては止むを得ないことなのだ。
ホテルに帰って、夕食までにお土産も買っておいた。充実した時間を過ごしているが、余裕はほとんどない。石橋先生からいただいたご本の著者、中村先生のお宅に電話してしばし歓談できたのは楽しかった。
昨夜と同じレストランで夕食となったが、今夜は、明日の講演者である幸田先生が加わった。渡辺先生のお弟子さんである。
講演が成功した私はすっかり上機嫌だった。上野先生の奥様からも「とても面白かった」と真剣に感想をうかがうことができ、私の喜びは倍増した。
それで、図々しく「昨夜と同じ冷酒をいただきたい」と提案し、渡辺先生から笑顔で頷き返された。お酒の勢いもあって舌が快調にすべり、恐れ多くも渡辺先生とまともに議論してしまった(笑)。
8月4日(火)「夢の軽井沢講演旅行から帰宅・・・の風さん」
今日も講義が続くが、ホテルはチェックアウトしなければならない。早朝からバタバタと荷物の整理に取り組んだ。何度かミッシェルまで往復して、最後にホテルを出るときの荷物が最少になるように工夫しなければならなかった。こういった長丁場の講演旅行は、クルマで来るに限ると思った……が、はたしてまたそのようなチャンスがあるだろうか。
今日は朝からよく晴れている。快晴でも爽やかな風が吹く軽井沢は、せいぜい気温が24℃か25℃程度で過ごしやすい。湿度も低そうである。やはり高級避暑地なのだ。
中央公民館に着いてからも忙しかった。最終日なので、色紙を書いた。上野先生の助言からヒントを得て、故松本顧問のお言葉「技術と人情」と揮毫した(ただし、太いマジックで)。脇に奉故松本顧問と書き添えたが、故松本顧問に捧ぐと書くべきだったな、と後で悔やんだが仕方ない。
持参した本は完売してしまった(実は、販売用ではないものまで供出したが間に合わなかった)。事務局のTさんには失礼ながらサインをミスった文庫をもらってもらった。
3日間、お茶やお菓子、昼食の世話をしてくれた女性たちとも親しく話をしたために、本の注文を受けてしまった。
私の講演を聴けなくて残念がっていた教育委員会の委員長に、昼休みを利用してパソコンの画面によるミニ講演をしようと思っていたが、パソコンが不調で、後で本を送ることになってしまった。
そんなこんなで午前中の幸田亮一先生の「キリシタンの復活と天主堂建築」の話を前半しか聴けなかった。
午後というか、いよいよ最終講義は、樋口隆一先生の「バッハと日本の西洋音楽」だった。
シュバイツァーのオルガンの演奏録音を始めとして、前橋汀子さんのバイオリンやテノール歌手時代の藤山一郎のドイツ語の独唱など、次々に聞かせながら、興味深い話が続いた。中でも、本場ドイツの人にとっても難しい音楽であるバッハが、キリスト教信者でもない日本人によって、深い理解度で演奏され、また一般大衆も喜んで聴いて感動する。これは、すごいことなのだ、と聴いて、あらためて日本人の本質に迫った気がした。
すべて終わって、またお茶とお菓子と果物が出たが、私の提案で集合写真を撮っている間に、早くも先生方のお帰りの時刻が迫ってしまった(ごめんなさい)。
午後4時を回って、いよいよ私も軽井沢を後にすることになった。お世話になった方々一人一人にお礼を述べて、私ひとり名残惜しい気分を残しながら、ミッシェルのアクセルを吹かした。
無事に帰ることが大切なので、佐久インターから乗って、ほとんど高速を利用する最速コースで帰ることにした。
来た時と逆のコースだったが、恵那峡サービスエリアが夕食の時間になった。
旅行中は乱れた生活リズムではあったが、それなりに睡眠時間だけは確保できたので、疲れ気味のミッシェルでも運転する私は快調だった。
午後10時前に帰宅した。
大量に荷物を運び込んだが、持参した著書は完売していたので、気持ちは弾んでいた。
ワイフにケータイでは語り尽くせなかった土産話がたくさんある。
8月5日(水)「現実の仕事に復帰・・・の風さん」
久しぶりの出社で、たまっていた仕事を一気に片付けなければならなかった。
こういう場合助かるのは、今年、役職定年によりマネジメント業務を大幅に免除されたことで、たまっている社内メールが少ないのである。実務に復帰するまでが短時間で済む。
プライベート業務も、昼休みで完了させることができた。
しかし、少し残業して帰宅してからは大変だった。
いよいよ締め切りが迫ってきた中日新聞夕刊の原稿を再提出しなければならない。メールシステムの不調もあって、やや連絡が滞っているが、今度こそ、とばかりに原稿と写真データを送付して、一件落着。エラーメールも戻ってこなかったので、うまくいったようだ。
会社同様にプライベートメールもそこそこたまっているが、少しずつ返信していくしかない。
夕食中に奥歯の詰め物が脱落してしまったので、早めに治療しなければ。
8月6日(木)「徒手空拳で問題対応・・・の風さん」
昼休みにワイフからメールがあって、大いに慌てた。昨夜送信した中日新聞の原稿が反映されないまま、大刷のゲラができてしまったので、それを用いて夕方までに校正してくれというのだ。しかも、編集担当記者は東京出張でもう対応できないから、よろしく、とのことだった。手元に何もない状態で、このピンチに対応しなければならなかった。今から帰宅して、・・・そんなヒマは私にはない。
だいたい会社の仕事はいつもこんな調子である。それでも組織力で何とか対応していく。作家業は個人ビジネスなので、そもそもこんな問題に直面しないように仕事をデザインし計画していくものだ。しかし、こうなった以上は、とにかく対応するしかない。
全知全能を働かせて、乗り切った。かかった時間は約2時間である。ちょっと時間をかけ過ぎた。こだわりをなくせば、おそらく1時間でできたはずだ。
今日はまっすぐ帰宅せずに体育館に直行した。
少しメニューを減らして約1時間、トレーニングした。それでも汗を流した効果は十分あった。
8月7日(金)「生老病死・・・の風さん」
夏期連休に突入する前日なので、やれることをやっておかないといけない。
セキュリティの関係で、会社のメールシステムにアクセスできるパソコンは限定されている。いざという時のために持ち出しパソコンの手続きをした。
その後、職場の仲間に不幸があり、その葬儀に参列するため外出した。ようやく夏らしい暑さになり、喪服は厳しいが、斎場は冷房も効いているので、それなりの格好で参列した。まだ還暦前のお母さんを亡くした同僚も、そのお父さんも、非常につらい表情で、気の毒であった。生老病死とは言うものの、還暦前では早過ぎる。
外出したついでの用事をいくつか済ませながら、本社へ移動し、10月のドイツ出張旅程について、社内旅行代理店と打ち合わせた。色々な検討事項があったが、今回のドイツでの学会発表は、会社の出張にはせず、プライベート旅行にして、ドイツ国内の移動はレンタカーということになりそうである。出張ではクルマの運転はできないし、社会人入学での活動は、原則はプライベート活動だからである。
その後、製作所へ戻り、残っていた仕事を片付けて退社した。
帰りにミッシェルに給油したが、1週間前、軽井沢へ出発する直前に給油してから972.6km走行していた。けっこう走ったものである。
8月8日(土)「DPへの挑戦が決まる・・・の風さん」
大野先生とゼミをやるのに、直前までテーマを決めかねていた。が、それも昨夜覚悟を決めたので、朝から夢中で論文読みを開始した。
当然、それだけで読み終わるものでもないので、行きの電車の中でも電子辞書片手に論文読みを継続し、何とか、あと少しというところまで読み進んで、本山キャンパスにたどり着いた。
ドイツ学会旅行計画を相談した後、ゼミに入り、論文をどんどん読み進めていった。今日は半分ぐらい、と思っていたが、大野先生が絶好調で、午後5時過ぎまでかかって、ほぼ読み終えてしまった。
次は、私としては初めての挑戦になる「DP(ダイナミック・プログラミング)」への取り組みである。月末までに作戦を考えておかなければならない。
本山キャンパスの事務室で、今年の学位論文の「中間報告会」の日程を確認した。前橋市での講演依頼があり、バッティングしないか心配だったが、講演は1週間後である。これなら何とかなりそう。
それから地下鉄と市バスを乗り継いで、急いで県図書へ向かったが、タッチの差で閉館していた。
8月9日(日)「盆施餓鬼・・・の風さん」
毎年この時期、檀那寺の心月斎で施餓鬼があり、都合の良い家族が参加する。今年はうまい具合に夏期連休中のしかも日曜日に当ったので、ワイフと行ってきた。
最初に、先ず墓参。
地域の同じ曹洞宗の寺の住職らが、巡回する形で挙行しているそうで、心月斎としては今年3日目の最後の挙行日だった。そのせいか先祖の供養に来る人の数が少ないように思えた。
案内葉書に供物を添えて提出し、順番を待っていると、ほどなく名前を呼ばれた。待っている間も奥の睡蓮が咲く池を抱える庭から本堂に吹き込む風が涼しく、厳かな気分になっているので、神聖な面持ちで二人は前へ進んだ。
祭壇にお布施を置いて焼香する。たくさん並んだ位牌の中に、今年は亡父の位牌をすぐ見つけることができなかった。名目、合掌、南無釈迦尼仏、南無釈迦尼仏、南無釈迦尼仏。
振る舞われる精進料理も毎年の楽しみだ。もずくに野菜の煮付け、ゴーヤの漬物が定番で、なぜかアンパンがついてくるのがうれしい。
帰宅してから、トレーニングに出かけ、ほぼフルメニューをこなした。汗を流して体重がかなり落ちたが、体力は戻るだろうか。
月末のCPE受検のための勉強も開始した。
8月10日(月)「郵便物の配送でフラフラ・・・の風さん」
昨夜、夕食の後ぶっ倒れて、午前零時に目が覚めた。
軽井沢夏期大学で受注した『怒濤逆巻くも』の発送準備を、もういい加減始めなければ、と思ったので、それから始めたら、こいつは中途半端で終えてはいけない、ということが分かった。かなりの仕事量だからである。
結局、著書へのサインはもとより、同封するおまけの印刷、一筆箋の用意、スナップ写真の印刷などをしているうちに夜が明けた。
朝食後も根性で継続した。
今度は、真剣に手紙も書いた。
それからミッシェルで外出して、町役場まで行き、住居地の観光パンフレットをもらってきて、さらに明日のためのお土産も購入してきた。
こうして準備できたのが、エクスパック500で9個、ゆうパックが1個、封書が2通に、郵便振込用紙1通となったので、昼食後、地元の郵便局まで出かけた。
ダンボール箱に詰めて行ったが、一度に運び込むことができず、二度に分けざるを得なかった。
とにかく、大仕事が終わってホッとし、それからシャワーを浴びて、寝室へ入ってぶっ倒れた。
再び目覚めたのが午後9時半である。
8月11日(火)「熱田神宮の算額見学・・・の風さん」
朝から夏らしい暑さになりそうだった。
書斎でバタバタと準備し、軽く昼食を摂ってから、電車で名古屋まで行こうとしていたら、ワイフから「クルマで行ったら?」というアドバイス。夕方から歯医者へ行くので、電車でとんぼ返りするのは、けっこうしんどいと思っていたのは事実だ。
それですぐミッシェルで出発したのだが、途中から電車に乗る無人の駅前の駐車場に、予定時刻までたどり着けなかった。少し余裕があったので、次の電車を待っていたら、電光掲示板に「事故の影響でダイヤが遅れている」という表示! ヤバイ、と思っているうちに次の電車が来た。窓から顔を出している車掌に運行状況を尋ねたら、「もう回復しています」とのこと。やれやれ。
今日は、熱田神宮の算額を見学に行くのだが、誘った人が次々に都合が悪くなり、結局、愛工大の中国人留学生二人を同行させることにした。江戸時代の数学、和算は、そもそも中国から入ってきたものである。特に算額の表記は、「今有……」で始まる問題文、「答曰……」で始まる答え、「術曰……」で始まる解法、といった定型パターンがあるが、これは明の程大位が著した『算法統宗』の記述の踏襲である。それで、今朝、その『算法統宗』のコピーを作成して、留学生に渡そうと持って来ている。
熱田神宮の近くで待ち合わせていたのだが、合流するのに手間取った。私は名鉄の「神宮前」で降りたのに対し、彼らは地下鉄やJRで来たらしく、結局、駅員に誘導されて、彼らはやっと熱田神宮東門付近にたどり着いた。歩きながら『算法統宗』の話をした。
今回見学させてもらう算額は、深川英俊先生が音頭をとって製作された復元算額である。その深川先生が来てくれて、詳細な解説をしてくれたので、非常に感動した。傑作の問題なのである。
それにしても美しい算額だ。宝物館の学芸員の方の話だと、檜の板を反りが出なくなるまでエージングした後、宮大工がかんなをかけたそうだ。図形もかなり工夫したそうで、色づけも顔料を調合したという。そして、本文は元資料に忠実に再現してあり、意図的な修正などはしていないという。
この漢文の文章に関して、中国人留学生が「中国語として正しいか?」などと質問されていて、簡体字で育った彼らでも、いちおう「正しいです」と保証していた。
予想外の日中文化交流ができた。
終わってから、彼らとコーヒーを飲んで雑談した後、電車で戻って、歯医者へ行ったのだが、ミッシェルを利用して正解だった。
8月12日(水)「今日も濃密な1日・・・の風さん」
今日も電車で名古屋へ出かけた。昨日に続いて暑い1日だった。
往復の電車で、楠木誠一郎さんの『福沢諭吉は名探偵』を読了した。これは、幕末の大坂の適塾に、タイムスリップした連中が電子辞書を持ち込むという(つまりオランダ語の辞書『ズーフハルマ』と対比することになるという)見事なアイデア発想で始まりながら、ちゃんと紙の辞書の利点や辞書を引く重要さを印象付けるという、爽やかな主題が貫かれた傑作である。
子供向けの本ではあるが、時代考証も押さえるところはきちんと押さえてあって、勉強になった。
そもそもなぜ急にこの本を読み出したかというと、嫌いな福沢諭吉が出ているからだ。嫌いな人物でも、勉強しておかないと、まともに批判はできない(笑)。
帰宅してから、軽井沢でお世話になった方から電話があった。多くの方と知り合いになって頭が混乱している私は、応対する内容を間違えたことに、電話を切ってすぐ気が付いて、ワイフに打ち明けた。実は、相手の電話番号を知らないので、すぐかけ直すことができない。すると、「136」にかけると直前にかけてきた相手の電話番号を教えてくれるというではないか。やってみたら、機械音ながら、相手の電話番号を知ることができた。それで、さっきの電話の内容の間違いを訂正することができた。やれやれ。
10月のドイツでの学会発表のプログラムが確定したという連絡が事務局からあった。
3日間ある学会の2日目の午前である。最高の位置である。初日に学会の様子をしっかり調べておけるし、2日目のランチ以降はリラックスムードになれる。研究所の見学ツアーも初日の夕方に終わっている。特別ディナーも2日目の夜である。
真夏のような1日が静かに更けていった。
8月13日(木)「霊のお迎え・・・の風さん」
月末にCPEという生産技術の検定を受検する。そのための勉強をしなければならない。何せ、試験時間は3時間である。広い出題範囲から膨大な問題が出る。それだけ生産技術という仕事はカバーする領域が広いのである。その道30年の私は、広く浅く知っているので、もしかすると合格するかもしれないと思って受検するのだが、試験勉強は大変だ。受けるからには合格したいからだ。
夕方まで頑張って、たそがれ時になり、気温も落ち着いた頃、ワイフと一緒に、心月斎の墓地まで亡父の霊の迎えに行った。
いつも自宅にいるものと思い込んでいる私だが、いちおうワイフの言いなりになって、行事もきちんとこなす。
施餓鬼からそれほど日数が経過していないから、墓地も供花もそこそこきれいである。
それでもほおずきの交じった花に替え、ろうそくを立てて線香に火をつけた。
合掌してから、まだ明るい空を見上げると、無数のとんぼ。その中に黒揚羽蝶が2頭、からまるように上空を飛翔して行く。きっと「番(つがい)」なのだろう。蝶は1匹、2匹でもよいが、学術的な数え方である1頭、2頭が好きだ。特に、大型蝶はそう呼びたい。
夕食後、大量にたまっていた名刺の整理をした。
8月14日(金)「テキスト2冊を読了・・・の風さん」
朝晩が過ごしやすい。秋を感じる。
今日も受検勉強。対象となるテキストは2冊で、昨日で1冊読み終わったので、今日は残り1冊を読まなければならない。朝から必死になって読み続けた。こういう時に大事なのは、パソコンの電源を切っておくことだ。ネットがつながっていると、ついついサイバースペースに巻き込まれてしまうからな(笑)。
夕方までテキストを読み続けて、頭がおかしくなってきた。どうも私がやることが極端だ。
あと2時間くらい死ぬ気で頑張れば、読み終われそうだったが、限界を感じていたので、トレーニングに出かけた。
軽くやるつもりが、ほとんどフルメニューに近かった。
帰宅して、シャワーを浴びてから、夕食を遅くしてもらうように頼んで、また書斎に逆戻り。
その間に、軽井沢で『怒濤逆巻くも』を買ってくれた千葉市の人と電話で話した。
夕食の時間になったが、あと1章だけ残ってしまったので、テキスト片手に階下へ。
食事を終えてから、続きを食卓でやった。そして、終わった。
3回読むことができれば、いくら記憶力の悪い私でも、覚えるに違いない……が、まだまだやることが山のようにある。
就寝前に、眠い目をこすりながら、あちこち必要なところへメールした。
8月15日(土)「終戦を考え、ダークナイトも観る・・・の風さん」
終戦記念日である。
64年前、玉音放送のあった日も、新鷹会の勉強会は開催されたそうだ。小説の勉強は単に小説の技法を学ぶことではなく、人生を学ぶことなので、中断せずに勉強会を続けたことは意義があると思う。そして、その勉強会は現在も会員に確実に引き継がれている。ただし、こういった古臭い考え方を保ちながら、新鷹会の存在意義を考えている人間は、それほど多くないだろう。
昨日でいちおう第1回目のテキスト読破を終えたので、気になっている雑務に取り組むことにした。
最初に、来週末の大分、長崎行きの詳細計画である。
往復のフライト、宿泊所、長崎での和算研究大会のスケジュールが固定されているので、あと少し埋めれば良いのだ、とタカをくくっていたら、はまってしまった(笑)。順調に決まったのは、大分(具体的には杵築)から長崎(具体的には大村)までの移動スケジュールだけだった。あれこれ迷ったあげく、大分ではレンタカーを借りることにしたし、長崎では和算研究大会終了後のスケジュールまで決められなかった。残りは来週の課題である。
ここまでが、午後3時近くまでかかってしまった。
夕方から、ワイフと心月斎まで行き、霊の送りをしてきた。例年通り、これを墓地で飲みながらやっている家族がいて、楽しそうだな、と横目に見ながら自分たちのお勤めを果たした。
夜は、社会人学生としての仕事を一気にやった。最後にまとめて京都で休暇中の大野先生へメールで送った。また、先生のお世話になってしまう。ありがたいけれどもったいない。
もっとやるべきことがたくさんあったが、今夜はこれまで、ということと、久しぶりにワイフがその気になったので、午後11時過ぎからDVDを観ることになった。昨年買って開封すらしていなかった、バットマンシリーズの「ダークナイト」である。死んだヒース・レジャーのジョーカーが何と言っても魅力である。アカデミー助演男優賞は当然ながら、もったいないことをした。残酷で嫌いと言っていたワイフも最後まで眠らずに観ていた(笑)。
8月16日(日)「野村先生の忌明け・・・の風さん」
とうとう夏期連休の最終日になってしまった。たくさん仕事をやったが、まだまだたくさん残っているし、こういった状態は、あと半年は続くだろう。せいぜい死ぬことなく頑張ろう(?)。
今日からやっと来週の長崎での講演準備を開始した。けっこう大変な仕事量になることが分かっていたので、簡単には手をつけられなかった。
しかし、連日の頑張りの疲れが出てきて、イマイチ集中力に欠けている。それで、止むを得ず、他の雑務にもときどき手を出しながら、デスクに向かっていたが、それも夕方には限界がきた。
本当はトレーニングに行かねばならないところが、逆にダウン。窓の外が暗くなるころまで起き上がれなかった。
今日は野村周一さんから野村先生の忌明けの連絡が届いた。1ヶ月勘違いをしていた私は、まだ先だと思っていたのだから情けない。封筒を開けてみると、先生の遺影と一緒に、周一さんの言葉が書かれてあった。
さすらいて 天(そら)に筆置く 鷹一羽(は)
周一さんの側から見ても、弟さん、お母さん、お父さんと続けてなくして、一人だけになってしまったのだ。
合掌。
8月17日(月)「追悼文に着手・・・の風さん」
今日から会社勤務再開。寝不足で最悪のスタートを切ってしまった。
前もって、やるべきことをデスクノートにぎっしり書き込んであったので、朝からあまり頭を使うことなく、ひたすら業務に励んだ。お陰で、昼前には簡単な雑務はおおかた済ませることができた。
昼休みに、昨日できなかった、野村先生の追悼文の下書きを書いた。やり始めれば早いのだ。今夜と明晩、自宅で推敲すれば完成しそうだ。
午後になって、運良く会議がないので、2日間できなかったCPEの受検勉強を始めた。とりあえず今日は60ページ読もうと思った……が、寝不足で頭の中に靄がかかっている。
そのうち会議も始まり、雑務の処理も必要になったので、テキストを60ページ読み終わったのは、午後7時だった。
すっかり秋の気配が濃くなってきたので、帰りはミッシェルのエアコンを使わずに走った。走ること、走ること、快調な走りだ。やはりエアコンで相当の馬力を食っているようだ。
帰宅したら、追悼文の推敲をしようと思ったが、その前にやることが急にできてしまった。
今夜は早めに寝て、明日はもっと頑張ろう。
8月18日(火)「男のロマン・・・の風さん」
建部賢弘を主人公とする小説『円周率を計算した男』の作者として講演するとき、しばしば現代の建部賢弘として東京大学の金田康正先生を紹介している。収束の速いコンピュータプログラムやスーパーコンピュータの性能評価などを研究されている金田先生は、毎秒1兆回の計算ができるスーパーコンピュータを使って、2002年に円周率1兆2411億桁を計算した。かかった時間は600時間だった。
桁数が多いことを競っているわけではないが、研究成果の実証として円周率の計算は分かりやすい。
朝食を摂りながら朝刊にざっと目を通すのが習慣になっているが、気になる記事があった。筑波大学の高橋准教授が、円周率2兆5769億桁の計算に成功したという。しかも、金田先生の計算時間の8分の1の73時間36分で。
もっとよく読んでみると、使ったコンピュータは640台を並列にしたシステムで、全体で毎秒95回の計算ができる性能だという。それなら、金田先生が使用したスーパーコンピュータよりも95倍速いコンピュータシステムで、2×8=16倍の結果しか出なかったことになる。もっともこういった比較が正しいのかどうか、あまり自信はない。
今回の記録は早速ギネスブックに申請されたという。
ウサイン・ボルトの100m9秒58というニュースもまだ耳に新しい。
記録は破られるものだ。しかし、そうと分かっていても、一瞬でも世界一になりたいと思うのは、男のロマンではないか。
8月19日(水)「いよいよ講演スライド作りに着手・・・の風さん」
今日こそ23日の講演の準備をするぞ、とこぶしを握りながら帰宅したが、夕食後、ダウン(笑)。
昨夜は、野村先生の追悼文を書き上げるのに、午前1時半までかかってしまったのだ。今朝は早起きして本社へ直行したので、眠い眠い……。
目が覚めたら、午前零時を回っていた。
これなら徹夜でやっつけてやる、とまたこぶしを握って、講演スライド作りに取り組んだが、午前5時頃にダウン。
もちろんスライドは完成していない。
8月20日(木)「依然としてできず・・・の風さん」
昨日とよく似た状況だ。ただし、ダウンしたのは夕食前。
それから講演準備を始めたのだが、思うようにはかどらない。
結局、午前1時に中断して、旅行の準備。取材も計画しているのだから。
途中になっている講演スライドの作成は、九州へ行ってからだ。やれやれ。
8月21日(金)「懐かしさの感じられる城下町杵築探訪・・・の風さん」
結局、昨夜の就寝は午前2時半になってしまった。しかも、講演スライドはあまり進展せず。
これまでの使いまわしですまないスライドの作成に手間取っている。欲張ってあれこれ手を出しているために、こういうときに勉強不足がたたるのである。
それでも、行かねばならぬ。だから、とりあえずベッドへ横になった。
目覚ましをセットした午前5時20分に起床。ワイフも同じくらいしか寝てないはずなのに元気に起きだしている。宇宙人かもしれない。これまで気が付かなかったが。
宇宙人にセントレアまで送ってもらった。
あらかじめネット購入で座席も指定済みだったので、手荷物検査へ直行。8時前には出発ロビーに着いて、コーヒーなんぞを飲んでいた。しかし、眠い。
搭乗したB737−700は、双発のジェットで120人乗り。ほぼ満席だ。ビジネスと思われる客はあまりいない。金曜日だが、娑婆はまだ夏休みモードなのだろう。機内ではひたすら体を休めた。
大分は初めてである。明日から長崎で開催される全国和算研究大会で講演するついでに寄る格好だが、目的は麻田剛立の生まれ育った杵築城下を取材することだ。
レンタカーを借りて先ずは安岐町の三浦梅園資料館へ向かう。どんどん田舎へ入り込んでいく。やがて、ヘビが道を横断しているのに出くわした。車の通行量はきわめて少ない。当然か。
9時開館のところへ9時半ころ着いたのだが、記帳ノートにもう先客があった。シアターを一人で占拠して解説映画を3本観て、三浦梅園の凄さをほぼ把握できた。人間は自然にはかなわない。だから自然が先生だ、ということで、自然に対する疑問を突き詰めていくことで、物事の本質を探った哲学者なのである。だから、生涯、お伊勢参りと2回の長崎旅行を除いて、ほとんど遠出をしなかったが、それで十分だったのだ。取り組み姿勢は科学者そのものだったから、実証天文学者の麻田剛立と通じるものがあったのだ。旧宅も見学できた。大自然に囲まれた中に建っているといった印象が強い。
ナビが推奨する山越えルートで杵築へ向かった。三浦梅園もこんな道を通って杵築城下へ行ったのだろうか。
産業センターで昼食後、杵築城へ向かった。道は狭いがどこまでも車で進入できる。体力温存の意味でも、レンタカーにしてよかった。大坂へ出奔した麻田剛立は、はたして城山から大坂方面の海を眺められたかどうか確認したかった。城内展示の中に城下町家臣住居マップがあって、綾部という文字が寺町のあたりにあった。ここが剛立の生家かもしれない。
続いて、城下町資料館へ向かった。コンパクトカーであらゆるところへ進入できそうなので、気持ちはすっかり大胆になっている。無料の駐車場も多いのだ。
城下町資料館に城下町を再現した大きなジオラマがあった。細かなところまでよく作ってあったので、館員に綾部家の位置を確認した。旧市役所のあるところで、そこには、現在は申し訳程度の碑しか建っていないそうだ。その付近をデジカメでばんばん撮影した。
次に、その生家跡へか向かった。旧市役所の前が駐車場になっていて、そこへレンタカーを止めた。廃墟のような旧市役所の植込みの中に、木製の杭と言ってもいいくらいの碑があって、説を明板などはなかった。
天神坂、志保屋の坂、酢屋の坂など杵築の財産といえる観光スポットをくまなく歩き(車を降りて歩行者になっているとき、地元の車が観光客に気を配っているのがよくわかった)、懐かしさと名残惜しさを感じつつも、早々とホテルにチェックインした。やらねばならないことが残っている。
長期滞在リゾートレジャー客向けのホテルで、安アパートみたいな部屋の造りだったが、すべてが安価だったので、貧乏作家には助かった。海鮮料理の晩御飯付きで、1万円もしないのだ。鱧(はも)とジュンサイと冬瓜(とうがん)のお吸い物が絶品だった。
ここからは、軽井沢の再現で、寝たり起きたりしながら講演スライドの作成に励んだ。
かなりの進展があり、午前1時に何とか就寝できた。
8月22日(土)「全国和算研究大会初日・・・の風さん」
朝食は7時からだったので、早々と10階のレストランに行ってみると、自分以外の滞在客がいた(笑)。
バイキングスタイルではなく、割子弁当がテーブルに置いてあり、ざっと数えてみたら、10個あった。
同じフロアの屋外がビアガーデンになっているが、開業しているようには見えなかった。
窓際の席だったので、外を眺めると、ゴルフ場、テニスコート、ヨットハーバーなどがある。リゾート地でまだ8月なのに人気はほとんどない。まだ朝が早いせいかな……と思っていたら、向かいのペンション風の建物からうら若い女性たちが10人ぐらい出てきた。同じ滞在客10人なら、あっちの方が良かった……と今頃地団駄を踏んでも後の祭り(笑)。
すぐにご飯と味噌汁、納豆、味付け海苔を持って来てくれた。
部屋に戻って荷物をまとめ、1階のフロントでチェックアウトをした。昨夜、ほとんどの準備が終わっていたので、ここまで順調である。
野天駐車してあったヴィッツは無事だった。ナビをセットすると、JR杵築駅近くのレンタカー営業所まで約10kmである。途中、コンビニで昼食のパンを購入し、営業所直前のGSで給油したが、ナビの推奨コースは、杵築城下町を経由しないものだったので、もう一度通り過ぎながらでも観光を、という思惑は外れた。
近かったが、レンタカー営業所の若者に杵築駅まで送ってもらった。なかなかの好青年だった。彼の幸福な人生を祈りたい。
瓦屋根の杵築駅を、特急「ソニック」で9時3分に出発した。長距離移動は新幹線を利用することが多い。だから、特急は珍しいのだが、外装は深いブルーに塗装され、内部も凝った照明に、座席周りにあれこれと小道具が配置されていて、旅の楽しさを感じさせてくれる。やがて、満員になってしまったのには驚いた。前もって切符を買っておいてよかった。
博多に着くまでの間に、昨日の気まぐれ日記の下書きを書き上げておいた。アップできるのはいつのことやら。
博多には3分遅れて着いた。これで乗り換えの時間はなくなってしまったのだが、次の「かもめ」は乗客を待っていてくれた。
今度は、まるでナイトクラブのような内装の客車である。
4分遅れで出発した。
外を眺めていると、雲行きが怪しい。次第に雲の色が濃くなっていく。
まもなく雨になり、それが強くなった。土砂降りである。まじかよー、と呟いても仕方ない。梅園先生がおっしゃるように、人は自然にはかなわないのだ。
この間に、講演の準備のために、2冊の本をざっと眺めた。
諫早に着く前に、昼食も終えた。いつもの500円以内の質素な(?)食事だ。
諫早の空はすっかり晴れていた。
ここも乗り換え時間が3分しかなく、同じ全国和算研究大会に向かうステッキの人を伴い、エレベータを利用して、電車を乗り換えた。
シーサイドライナーに乗り換えると、知った顔がいくつもあった。 あ、真島先生だ。
大村駅に着くまで、小林先生とノンストップおしゃべり。
集合場所の富松神社まで歩く間に、もう汗びっしょり。
ここで大会受付をした。米光先生とご挨拶。今回の大幹事の先生である。ごくろうさま。
算額を見学する予定だったが、社務所で涼むことにした。続々と知人が姿を現す。あ、小寺先生だ、木下先生だ、佐藤先生だ。
マイクロバスで、大会会場である国民宿舎くじゃく荘へ。
50名近い参加の研究発表会がすぐに始まった。続々と資料が配布されて、テーブルの上がいっぱいになる。来たときから荷物が一杯なのに、どうなるのだろう、これから?
夕方、懇親会まで、1時間半ほどの時間ができた。たいていの人はここでひとっ風呂浴びてくるのだが(温泉だし)、私は明日の講演の準備がまだできていないのである。5人部屋の窓際に陣取って、パソコンを立ち上げた。
ほとんどスピーチが余興の懇親会は、7時から9時半近くまで続いた。私も話す機会があったので、昨日の取材の話をした。これで、明日しゃべることが少し減った。助かった。
少し酔ったので、温泉に入ってから、講演の準備の続きをすることにした。
少しぬるめの露天風呂に入ったのだが、皆と懇親を深めているうちに、すっかり温まってしまった。
部屋に戻ってからも汗だくで、冷たい缶コーヒーを2本飲んで身体を内側から冷やさなければならなかった。
何とか午前1時に、私も横になることができた。
8月23日(日)「また来なければ長崎・・・の風さん」
暑くて目が覚めた。汗びっしょり。冷房が停まっている。まだ5時半だ。
冷房を効かせるよりも温泉……朝風呂に行こう。
外がもやっている。ベランダへ出ようとしたら、小林先生が散歩していた。
朝は6時からとなっている温泉は、鍵がかかっていて入れなかった。
いったん出直して、6時過ぎに朝風呂に入った。2番目の早さ。
朝食も7時きっかりからだった。時間に厳密なのは、国民宿舎のせいか。
午前中最後の講演が、私だった。
「皆さん、お疲れでしょうから、リラックスして聴いてください。今から疲れるのは私だけ、というコンセプトで講演させていただきます」
と昨夜考えたジョークで切り出した。
50分という短い(?)講演時間で、豊富なデータを厳選して話すのは難しい。サービス精神が旺盛なので、スライドを削除するのが、何とももったいないのである。でも、仕方ない。
結局、いつもの超高速ビジュアル講演をやってしまった。
何箇所か笑いをとることもできたので、まあ、聴講者の疲労回復には少し貢献できたかも。
最後に、講演内容と密接な関係のある『怒濤逆巻くも』の宣伝をしたら、意外や意外、たくさん受注できた。
昼食後、マイクロバスでくじゃく荘を出発。今日も暑くなりそうだ。
昨日降りた大村駅まで送ってもらって、長崎へ向かった。長崎であと1泊する木下先生と一緒である。木下先生と初めてお会いしたのは、東大の本郷キャンパスで、「高橋至時没後150年フォーラム」に出席したときだった。そのときに今回の旅行(一緒に露天風呂に入ったり、長崎まで同じ電車に乗ったり)を想像できただろうか、いやできたはずはない。それほど、人と人の出会いは運命的であり、予想を超える展開になるものなのだ。だから、人生は楽しい。
帰りの飛行機の時間まで、長崎を取材する予定だった。
しかし、連日の超多忙のため、しっかり取材スケジュールを作ることができず、行き当たりばったり方式になってしまった。持参したガイドブックでは、目的地を調べることができず、さらに致命的だったのは、長崎駅前のバス乗り場の利用方法を勘違いしたため、約1時間のロスを発生させてしまったことだ。元々ボケているところへもってきて、連日の疲労が重なり、この行き当たりばったり方式では、死地を脱することができないのである。
とうとう取材を断念した私は、8年前に訪れた観光地を再訪問して、長崎まで来たことを実感することにした。
市バスを利用し、想定外のバス停で降りたあと、徒歩で、オランダ坂、大浦天主堂、グラバー邸をぐるりと回り、今度は市電で戻り、出島資料館に入って、復元建築物の増加状況を確認した。観光スポットだけなら、何とか行けるのだが……。わずか1時間あまりの間に、ペットボトルのゼロコーラを飲み切った。それだけ汗もかいたけど。
再び市電で長崎駅前へ戻り、コインロッカーから重い荷物を取り出して、今度はアイスクリームを食べて少し身体を冷やしてから長崎空港への直行バスに乗った。
もうこれで最後だからと、空港でお土産を買い、荷物を預けた後、夕食に五島列島のうどんを食べた。
あとは飛行機に乗って帰るだけ、となったわけだが、自分がけっこう元気なのを感じた。どんなに暑くても、しっかりご飯を食べ、汗をかきながら歩き回ったせいだろう。
帰りの飛行機は、B737−500で、来たときに乗った飛行機より、ひとまわり小型だった。機内にはぽつぽつと空席があった。上空の大気はやや不安定だったらしいが、何の問題もなく快適な空の旅だった。
セントレアから電車に乗り、ほど良い駅までワイフに迎えに来てもらった。
午後10時頃帰宅して超特急で荷物を片付けた後、さっさとシャワーを浴び、私以上に多忙なワイフをつかまえて、ビールを飲みながら杵築・長崎旅行報告をやった。いつものドタバタ報告に、ワイフの顔が何度も歪んだ。
終わったのは午前1時過ぎである。
8月24日(月)「超超超多忙の1週間の幕開け・・・の風さん」
先週末、九州に行っていたので、仕事がたまりにたまっている。
今日は定時で退社して、途中で給油と洗車をした。とりあえずミッシェルは準備OK。
帰宅して、あちこちにメールをしたが、全部は処理しきれない。
まして、気まぐれ日記を書くことなど、到底無理。来週まとめてやろう。
野村先生の追悼文のゲラが届いたので、校正してファックスした。これは必須だった。
8月25日(火)「お金は天下の回り物・・・の風さん」
午後から同じトヨタグループの会社に出張した。技能教育のしくみについて見学させてもらうのだ。
日本能率協会の生産技術研究部会の主催する企業視察なので、参加メンバーは知った顔ぶればかりである。
型保全に配属された新人の集中教育がされていて、偶然目撃できた。集中教育は3ヶ月連続なのだが、今年の新人8人のうち女子が3人もいるのだ(昨年は8人中、2人が女子)。男女区別のない教育で、女子も型保全を選択する時代がやってきていることに驚いた。ますますひ弱な男は働く場を失っていく。平和な時代は、男の出る幕は少ないのかもしれない。
5月に文庫の『円周率を計算した男』を買ってくれた人がいて、その感想を聞くことができた。その感想の中に、面白い小道具が出てくるので、本物を見てみたい、というのがあった。専門書なら、図や写真を入れたり、注釈をつけたり色々できるが、小説ではちょっと……。
しかし、このことで思ったことは、読者を喜ばそうとするあまり興味深い物をどっさり入れると、かえって読者は欲求不満になる、だからほどほどにすることも読者サービスなのだ、ということだ。ビジュアル講演では、画像や写真をふんだんに見せるから面白いのだ。小説は違う。
帰宅途中に大型電気器具販売店に寄って買い物をした。抽選番号のついたダイレクトメールをもらっていたので、その確認も目的だった。とはいえ、店の戦略にはまって、まんまと1万円をこえる買い物をしてレジに立ったあと、ふと抽選番号を見たら、……当たっていた! ギフトカードをゲットした。
「他人に損をさせるくらいなら自分が損をした方が気が楽」というのがモットーで、さまざまな場面で金銭的に足を出しているが、こういうときにいくらか戻ってくるのだ。やはり「お金は天下の回り物」だ。わっはっは。
今夜は、長崎で注文を受けた本と一緒に送る資料を、他の作業をしながら、印刷した。厖大な仕事は、少しずつ減らしていかないと、やる前から力尽きてしまう。
8月26日(水)「査読を終えて論文が戻った・・・の風さん」
今日の会社は忙しかった。会議も連続したし、肉体作業もあった(笑)。
その間に、待望久しい論文が郵便で戻ってきた。今年1月に日本経営工学会論文誌向けに投稿した論文が、やっと査読を終えて戻ってきたのだ。
査読者をレフェリーと呼ぶ。レフェリーは二人だ。レフェリーAはすぐ査読を終えてくれたが、レフェリーBがなかなかやってくれなかった。それで、しびれを切らした私は事務局に催促のメールを出した。
2度目の催促で、レフェリーBはクビになり、レフェリーCが新たに起用された。そのレフェリーCが納期を守って査読してくれたので、論文が戻ってきたのだ。
どちらも判定は「修正を必要とする」というもので、きちんと対応すれば、案外早く掲載が実現しそうだ。
やる気が出てきた……が、今週はその対応をしている時間はない(涙)。
8月27日(木)「これだけで1日の出来事?・・・の風さん」
いつも通りに目が覚めて書斎に荷物を取りに行ったら、ケータイに着信があった。母からだった。留守録もあって「電話して欲しい」という。最近の母の件では、すべて兄貴に相談してから行動することにしているので、出社後、兄貴に電話することにした。
で、午前中に、兄貴に電話してみると、案の定で、話がややこしくなるだけだから、すべては兄貴に任せることにした。しかし、そのことよりも、関係者の知人が先週交通事故を起こした話の方が、はるかに大問題だった。
ツーリング中の大事故で、片足を切断したという。それで、まだCPUに入っているとのことだった。
ツーリングというから、バイクの事故である。既に還暦を過ぎたその人に、ツーリングの趣味があるとは知らなかった。交通事故は本当に怖いし、いつ起きるか分からない。どんなに気を付けても気を付け過ぎるということはない。
だが、今回の事故があらためて教えてくれたのは、そのことだけではない。
それなりの年齢になっていれば、やはり若いときとは違う、ということだ。
あらゆることに無理をしている私である。ほどよいセルフコントロールは絶対に必要だ。だからどうするのかって? ま、とりあえずダウンするときはあっけなくダウンすることにしよう(笑)。
今日は、家で用事があるので、職場懇談会が終わってすぐ帰宅した。
途中、コンビニでエクスパック500を買おうとしたら、売り切れていて無かった。 ちぇ。
玄関を開けて先ずショックを受けたのは、臭いこと。ワイフは朝からいない。子供らもまだ帰宅していない。犯人はシルバーに決まっている。
(シルバーはどこだ?)
家の中を探すが見つからない。最近、妙なところへ潜り込んで出られなくなるのだ。
そのうちワイフからケータイにメールが入った。
「晩御飯は用意していないから、自分で買って食べてね。シルバーにも餌を忘れないように」
ワイフは名古屋で用事を終えた後、途中で一杯会なのである。どうやらそれが始まったらしい。
「はい」
私は簡単に返信した。詳しいことなど書いている余裕はない。
シルバーを石油温風ヒーターの裏で発見した。臭さの発生源でもある。持ち上げてみるとう@ちがぽろぽろ落ちてくる。床も濡れている。いや、床よりもシルバーの体が、まるで濡れ雑巾のようだ。オシッコを吸っているのだ。
そのまま浴室へ運び、私はズボンを脱いで中に入った。シャワーをかけながら、洗い流してやる。雑巾ならしぼったりもんだりできるが、ペルシャの血を引くシルバーの長い毛は、簡単にはきれいにならなかった。
最後は、バスタオルで拭いてやり、とりあえず一件落着……は、しない。
もう一匹の猫、ペコが夕方のおやつ「煮干」を欲しがっている。
冷蔵庫から出して与えてから、今度はシルバーの晩御飯だ。これは、獣医から買ってきた極上の缶詰である。こいつを半分食べさせるのだが、ボケ老人のようにむさぼるように食べる。しかもぽろぽろ落とす。だから、器とシルバーの体を支えてやりながら食べさせるのだ。
これらがすべて終わった時点で、もうへとへとだった。
しかし、私も生きていかねばならない。
冷蔵庫の中にある冷ご飯を出して、コンソメのだしを使った「おじや」を作った。卵を落とし、醤油で味付けもした。美味かった。
午後10時前後に相次いで次女とワイフが帰って来たので、わずか10分の間隔で2度、最寄の駅まで迎えに行った。
もうこれで今夜の私の使命は完了、と思い、やっと書斎でパソコンに向かっていたら、午後11時過ぎ、ドアをワイフがノック。申し訳なさそうな顔がのぞいた。
長男が終電に乗り遅れたため、歩いて帰れない駅まで迎えに行って欲しいという。
「!?」
「だって、私、飲んでいるから」
午前零時頃、また私は出動した。
8月28日(金)「試験前夜・・・の風さん」
日本経営工学会の『生産システム誌』から会社(自分の勤務先)に依頼されている件があったが、午前中に関係部署に電話で確認し、その仲介役の仕事がようやく一段落した。
いよいよCPE試験が明日になって、今日は最後の追い込みである。
今回は東大受験方式(私が勝手に名付けているのだが)に挑戦することにして、とにかく先ずテキストを最後まで読んでしまうことにした。それを実施したのは夏期連休中である。納得しないと先へ進めない本来の私のキャラからすると、これはなかなかつらい作業だった。そして、連休明けから試験までに2回の復習を目標にした……のだが、2週間でそれをやり切るのには無理があった。何しろ私はやることが多すぎる。先週は九州まで行って取材と講演をしてきたのだから。
結局、昨日までに1回は復習できた(図やグラフの詳細チェックは省略したが)。そして、あと1回の復習をする時間は、今日しか残っていないのである。そこで、立てた作戦は、表題とマーカーでハイライトした部分だけ読み直すことだった。そして、キーワードはテキストとして残した。
もう最後の勉強なので、仕事の合間に取り組むことにした。もちろん昼休みもやった。
結局、定時までにできず、残業になり、午後8時にやっと最後までたどり着いた。
先に帰る同僚らから「無理しない方がいいですよ」と敬老精神にあふれた言葉をたくさんもらい、それが励みになった。
帰宅したら、まだ夕食になっていなかった。こういうこともあるんだ。
ワイフがビールを飲もうとうるさかったが、飲んだら「アウト」は間違いないので、断固として拒絶した。
夕食後、試験勉強をしたわけではない。明日のゼミの準備である。読みきれていない英語の文献の中から、適当なものを選んで、読み始めた。
残念ながら、途中までで中断した。寝不足では、明日の試験に失敗する。
明朝バタバタしないですむようにしっかり荷物を整理して、午前1時に就寝した。
8月29日(土)「結果はまずまず・・・の風さん」
ふだんと変わらない時間に起床した。空はからりと晴れ渡っているが、今日は決戦の日である。油断すれば、突如として行く手に暗雲がたれこめてくる。
8時20分発の電車で出発。車中で、試験のために抜き書きしたメモを読む。内容はほぼ理解しているが、理解していても試験で回答できるとは限らない。検定試験には暗記的な要素がある。学生時代から私が最も苦手とし、且つ採用しなかった勉強方法だった。……が、そうも言ってられない。目的は「合格」の2文字だ。
名古屋に着いて、コンビニでお昼ご飯用におにぎりを買ってから試験会場へ。
試験はプロメトリックと言って、ほとんどオンラインである。これも初挑戦。
時間になってブースへ誘導されて、パソコンを相手に取り組む。もちろん何も持ち込んではいけない。ほとんどゲーム感覚だが、ビジネス的に言えば、これは非常に人件費のかからない合理的なやり方と言える。会場は、受付に若い女性が数名いるだけだった。
180分、180問の試験が始まった。日本語の解釈で迷う場面が何度もある。問題を作った人の国語力の問題だ。故意にひっかけ問題にしたとは思えない。高額で購入したテキストから基本的に問題は出されているので、勉強した成果が出た。
しかし、試験開始から1時間半経過した時点で、集中力に問題が出始めた。「次へ」をクリックして出てきた新たな問題文が、読んですぐ意味がとらえられないのだ。老化現象である。何時間でもゲームを継続できる若者との違いであり、年寄りの弱点だ。こうなると、横のパーティションの壁をボーっと眺めたりして、頭脳をひと休みさせるしかない。
そんなことを繰り返しながらの後半戦だった。
30分を残して最後まで行ったが、気になる問題をすべて見直すだけの時間はなかった。
結局、3時間めいっぱい使って試験を終えた。
待合室でおにぎりを食べながら、迷った問題の確認をしてみたら、2箇所間違っていたことが分かった。上々の出来だったと思う。達成感と安堵感で一杯になった。何せ、試験の主催者側に知人がいて、主催者から見て私は有名人なので、下手な成績を取ったらあわせる顔がない。もう二度と立ち直れない。
それから地下鉄で本山キャンパスへ。
午後2時からのゼミに間に合った。
昨夜選んだ論文は1ページちょっとしか読めていないが、とにかくそれを使ってゼミを開始した。
午後5時半までのゼミは途中の休みなしで、最後は意識も朦朧としていた。
帰宅したのは午後7時過ぎだった。最寄の駅を降りてから、私の前を長男が歩いていたから、同じ電車だったらしい。途中はほとんど上り坂だが、あまり引き離されることはなかった。あいつも疲れていたのかもしれない。
帰宅してすぐ試験が満足できる出来だったとワイフに報告した。
夕食のときにワイフが盛んにビールを飲もうと言う。自分が飲みたいのだ。飲むとダウンする危険性の高い私は、最初拒絶していたが、とうとう折れた。1個の缶ビールを2:1に分けて飲んだ。もちろん、私が1。
書斎に入って、さあこれから連載原稿だ、とパソコンに向かったが、ほどなくダウン。
8月30日(日)「政治には国民は責任がある・・・の風さん」
目が覚めたら午前2時だった。午前零時を過ぎて2時間しか経過していないのに、昨日が既に過去のものになっていることに衝撃を受けた。連載原稿提出まであと2日になってしまったが、まだ1行も書いていない。
階下へ降りてシャワーを浴びてきた。
パソコンに向かってたらたらと手を動かしているうちに、また猛烈に疲労感が襲ってきた。
午前5時に再びダウン……、次に目が覚めたときは午前8時をだいぶ回っていた。
総選挙の今朝の空はどんよりしている。
階下へ降りて、他人になっているワイフに挨拶して、一人で朝食。
食べ終わった頃、珍しく賞味期限切れ前のヨーグルトが差し出された。
書斎に戻って、ようやく連載原稿のための資料を開いた。ポストイットが随所に貼ってある。なーんだ、初めて読むわけじゃないんだ。しかし、読んだことまで忘れていたのだから、初めてと同じだ。
昼食は冷やしうどん。
だいぶ天気が好くなって気温も上がってきた。ワイフと投票は夕方行こうと話し合った。
資料を読みながら原稿の構成を考えるが、なかなか良い案が浮かばない。
そのうちまた疲労感が襲ってきた……で、暫時ダウン。
午後6時過ぎに、投票のためワイフと家をクルマで出た。
投票所に着いて、通知の葉書をチェックして絶句。僕の葉書でなく、長女の葉書を持って来ていた。
取って返して、やっと投票へ。もしかすると、明日から国の政治が大きく変わる。
それから近くのコンビニへ。昨日届いた『怒濤逆巻くも』の注文に応えて、エクスパック500で送るのである。
ところが、エクスパック500がない! 木曜日に品切れだったのが、まだ補充していない! すぐ近くに新しいコンビニができたというのに、こんなことではつぶれるぞ、と自民党に向かって言うように胸の内で呟いた。
結局、もっと遠いコンビニまで行って目的を果たした。
夕食後、書斎に入ってパソコンを立ち上げると、「海部元首相が落選確実」と報じられていた。まだ9時を回ったばかりだと言うのに。つい2ヶ月前に会ったばかりの方なので、お気の毒な気がする。しかし、これで、自民党の大敗と民主党政府の成立は決まったも同然だった。
今回、勤務先が赤字転落して、あらゆることに変化が起きた。日本という国も、ある意味で、以前から赤字転落していたのだ。にもかかわらず、変化が小さく後追いばかりだった。
ぜいたくに慣れきっているのは間違いない。緊縮財政と節約で、一部の困っている人たちを除いて、たぶん9割ぐらいの国民は我慢の生活をしなければならない。少ない税金でやりくりすることに協力するのである。インフラの整備はおろか維持管理がお粗末になっても文句を言ってはいけない。一部の困っている人たちをこれまで以上に助けながら、国の借金を減らしていくのだ。それが、国民の選択した結果だから。
そんなことを考えながら、原稿執筆が始まった。
残りは明日である。
8月31日(月)「終章:超超超多忙な8月・・・の風さん」
超超超多忙が予想された8月の最終日である。残されている課題は、連載原稿の送付だ。
朝刊に目を通すと、総選挙の当選者の分析データが出ていた。これを待っていたのだ。
はたして、民主党の当選者の半数近くが初当選である。当然、年齢も若く、女性が多い。上層部が理解ある人たちなら問題ないが、手駒として使われるとするなら、問題はすぐに起きる。
しかし、たとえそうなったとしても、国民が選択したのだから、一緒に解決していかなければならない。
とにかく私は原稿である。
早々と退社して家へ向かった。
ところが、留守中の自宅に着いたら、か、鍵がない! いつもカバンに入れてある家の鍵がない! また、老化現象である。サンルームに回ってみたが、しっかり鍵がかかっていた。だが、庭のログのドアは開いた。無用心だが助かった。
ちょっと歩き回っている間に、もう蚊に刺されている。もてる男はつらいなあ(負け惜しみ)。
ワイフにメールすると、骨接ぎへ行ってから買い物をしているという。
エアコンをつけて、長椅子の上にひっくり返った。寝て待とう。
……ふと目が覚めたら、8時を回っている! 自宅には明かりが……!
な、なんと私が居眠りこいている間に、ワイフは帰宅し、おまけに後から帰ってきた次女の迎えにまで行っていた。それなのに、ログでぶっ倒れている私の救助にも来てくれなかったのだ。
超不機嫌になった私は、夕食時に、無言で不満に堪えていた。私が無言だと、もう会話が成立しない。長男も次女も口がないのだ。
沈黙の晩餐が終わった。
さすがに反省したのか、ワイフがデザートを次々に私の前に出しながら、話しかけてきた。もう長男も次女も食卓にはいない。それなら、私も対応しよう。
原稿執筆は午後10時過ぎから再開された。
夜中にワイフと階下で会ったら、庭のログで大きなゴキが出たという。危なかった。長椅子にひっくり返っているときに出ていたら、ショックで死んでいたかもしれない。
幸運を喜びながら、執筆を続け、ようやく午前3時半過ぎに完成して、メール送信した。
ベッドに身を横たえたのは、午前4時である。
超超超多忙な8月が、やっと終わった。
09年9月はここ
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